考えない葦はただの葦。

しがない外資系IT企業OLのぼやき。

AIは消費される"コンテンツ"から脱却できるのか

AIで最適化、AIで需要予測、AIでコールセンター

 

AI、AI、AI・・・

 

 

ニュース系アプリを開けば、

そんな記事で溢れかえっている。

 

まさに飽和状態。

 

 

AIの開発に関わる者ではあるものの、

いつも「お仕事何してるの?」と聞かれて、

「AIの開発に携わっています」と言うのが

恥ずかしく、またうんざりする。

 

 

 

 

 

 

 

よく、「AI」ってバズワードだよね、

という話を聞く。

 

 

まさにその通りだ。

 

 

しかし、私はただバズワードになっている、

という感覚だけではなく、

AIに関わる全ての人が考えないといけない

本質的な問題がそこにはあると思っている。

 

 

 

 

AIというテクノロジーは、

正直手が掛かるし、万能薬でもなんでもない。

 

いくつもあるパラメータをいじって、

あーでもない、こーでもない。

 

必要であれば大量の時間を割いてラベリングを行い、

モデルの評価。そして永遠のイテレーション

 

 

しかし、そこまで手がかかるとしても、

世の中はAIにドラえもん的要素を見出し、

あるいはそこまででないにしても

その人なりの可能性を感じて、

日々地道に取り組んでいるのだろう。

 

 

時間をかけ、世の中に

なにかのかたちとしてデリバーする、それ自体は

伝統工芸など”モノづくり”と何ら変わりはない。

 

 

 

 

 

 

 

さて、一体どれだけのひとが

その気概を持って取り組んでいるだろう。

まずひとつ疑問はそこにある。

 

 

 

言い方が荒くて恐縮だが、

たまにAIを自己承認欲求を満たすために

使ってるんじゃないかと思われるひとを見かける。

 

AIを使ってなにかをやっている、

その事実だけでちやほやされる世の中だ、

そういう感情が芽生えるのも理解できなくはないが、

SNSでもあるまいし、

インスタグラムの代わりにAIを使ってるのか?

と思ってしまう。

 

 

 

そうじゃないだろ。

 

つくってる自分に、紹介してる自分に

フォーカスしてどうする。

 

 

 

 

作り手の温度感や目的が様々なんだから、

当然誇張傾向にあるメディアが

(あくまで傾向にあるだけ。

きちんと本質を見て取材されている方もいる)

ファンタジーを描いてしまうのも

ある意味仕方ないのかもしれない。

 

テレビや雑誌やニュース系アプリや、

あらゆるところで特集が組まれ、

インタビュイーはそれぞれ思いを語ったりしている。

 

みんな自分のサービスなりプロダクトなり研究が

少しでも広まればという思いで、

取材を受けているだろう。

 

 

でも、現実として、

私はプロダクトやサービスがコンテンツとして

”消費”されているという感覚がどうしても拭えない。

 

 

 

 

明石家さんまがしゃべるとなんでもおもしろい

という感覚に近いと思うのだが、

それがどんな話だったかではなく、

それをいじったりしてなんとなくおもしろかった、

という事実が残るような、

そんなことがAI関連でよく起きていると思う。

 

AIをテーマにしたそれぞれの記事がおもしろい

のではなく、AI特集というのはなんとなく近未来的で

いいかんじ、といった具合だ。

 

もちろん認知の範囲が広がれば、

それだけ理解度にもばらつきがでてくるし、

ある程度許容すべきであるというのは間違いない。

 

しかし、AIに関わる者が

AIに関わっているという事実に酔ってたり、

プロダクトやサービスが紹介された

その事実で喜んでたり、

 

それでもって受け手にも何も伝わっておらず、

なんだかドラえもんぽいという印象で消化されて

 

 

 

 

 

 

 

AIの行き場は、

人間のように気持ちが備わっていたとしたら、

彼/彼女の気持ちの行き場は、

どこにあるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

AIだから興味を持たれる、採用される時代だからこそ

苦手はところも、得意なところも、

子ども同様AIにだってあるということを素直に認め、

どうしたら彼らが

本当の意味で役に立ち、活躍できるか、

AIに関わる全ての者は

真剣に考えていかないといけないのではないか。

 

子どもの活躍を親が

「わたしの日頃の教育のおかげだから」

というのではなく、

影から、こっそりと、支えてあげるべきではないか。

 

 

そう思わずにはいられないのである。